慣れ、欲望、比較はとどまらない
HEMの"No Word From Tom"のアルバムジャケットの模写をしてみました。
そんなことをしながらふと思ったことです。
スマホゲーム
たまーに暇な時に老眼鏡をかけてスマホでゲームとかすると、え!と思うくらいおもしろい時があります。
なのにその流れでいろんなのやってると、突然全てに飽きてもういいわ、てなる。
精巧で美しいグラフィックのゲームとか、昔からすれば考えられないくらいの素晴らしさだけど、そのような英知や技術を駆使したものにすら慣れてしまい、もっと楽しくもっと美しく、と求めてしまうのです。
落差があるほど刺激も大きい
資格の勉強とかややこしい仕事とか面白くない用事とか、長期間がんばってからだとドット絵の単純な昔ながらのゲームでも、めちゃくちゃ甘美なほど楽しく感じます。
苦しみ、快楽は正反対ですがどちらも慣れてしまうものなんでしょう。だからこそ反発として逆のものには、慣れたときでは考えられないような衝撃が伴います。
刺激から距離をおく
時々は慣れた感情からも、まだ来ぬ未来の感情(これが一番恐ろしい)からも離れて静かに過ごす時間って、大切だなあと思います。
だからこそ僕は静かに音楽を聴いたり映画を観たりする時間が何10時間に1回は必ず必要です。掃除をしてキレイになった部屋でお茶を飲むのもいいですね。うんパワーチャージ。
距離をおくためのものからも距離をおく?
しかし考えてみるとそれなんかでも、慣れやさらに自分に合う作品なんかを求める欲望はとどまらないわけで。
毒にも薬にもならない時間を休息的に過ごしているつもりでも、結局は人間の持つ根源的な毒はちっとは飲まなければ生きていけないのだなあと思います。
無意識の比較
「慣れ」と共に人生をややこしくしているのが「比較」です。あの人と比べて自分はどうとか、ねちねちといつまでも考え続けてしまうのです。全く無駄な時間です。
ややこしい用事のあとのゲームが刺激的ということからもわかるように、人と比べたりはしないように意識してても、結局は無意識では自らの体験の比較なんかはしてしまっているんですね。
人はなかなかどうしたって慣れや比べることからは逃げられないのでしょうか。
呪縛は解けない
なんでも無意識で比べてしまっている、ということを念頭に置いていれば「あの人に比べて自分は全然ダメだ、はー」なんていう超わかりやすい比較をすることも減ってくるんじゃないかと思います。
これからは少し心がけてみようと思います。瞑想はその方法論としての1つですね。
完全に無意識状態で比較するのと、無意識で比べていることをわかっていて比べるのでは意識的な行動も変わってくる気がするのです。
欲望からの呪縛でがんじがらめにされるのでも、完全に呪縛を解くのでもなく、すこ~しだけゆるめておこうというスタンスです。
ほんとに自分自身でコントロールできるのはそんなくらいじゃないかと思います。
若いつもりでいること自体が若くなくしている。ややこしいことをゆうといてなんですが、できるだけシンプルに生きたいものですね。
無意識を意識しようと意識した1日でした。